新潟県の最北端に位置する村上市は、慶長三年(一五九七年)上杉景勝の会津転封後、秀吉の命を受けて旧本庄氏領を拝領した村上周防守 義明(頼勝)により臥牛山に近世城の築城が始まり、元和六年(一六二〇年)堀直奇により、現在残る城下町の整備や三層の天守閣も造営されました。別名舞鶴城又は本庄城と呼ばれ、落雷により焼失して山上に残る石垣が栄華の面影を残しています。
毎年町屋では、県下三大祭りの一つにも数えられ、四〇〇年近い歴史を誇る村上大祭(七月七日)はかつて「屏風まつり」とも言われ各家に伝わる屏風を町衆の心意気で、展示披露しています。また、城下町村上ならではの荒馬14騎と19台のオシャギリ(二百年の趣向を凝らした屋台山車)は、まさに勇壮にして絢爛たる美しさの祭りです。
戦国時代の動乱を凛として生きた村上藩士たち。誇り高き武士魂が支えた村上藩も、しかし当時は、経済的に決して豊かとは言えない小藩でした。ようやく藩財政が潤い始めたのは江戸時代。下級武士・青砥武平治の創意による鮭の天然増殖事業「種川の制」が、藩の手で成功をおさめてからのことです。明治になると鮭で得た資金でさまざまな事業が行われます。とくに功を奏したのが、教育へのテコ入れと奨学金の設立でした。奨学金を受けた者たちは〝鮭の子〟と呼ばれ、村上から大海へ泳ぎ出で、各界で活躍をするようになり、激動の明治・大正・昭和の日本におおいに貢献をしました。
村上藩士の生き様を受けつぎ、「食は国の基」として、食と農をもって国を守る。それが、われわれ、「侍米」を育てる「農業侍(農事組合法人せせらぎ)」の気概であり、社会的使命であると考えています。
東日本大震災や福島原発事故以降、他国にはない日本人の精神、歴史につちかわれた文化や生活の素晴らしさがクローズアップされました。大量生産と大量消費への終止符。身の丈に合ったライフスタイルへの回帰。日本人ならではの手づくりの生産志向を基盤としたモノづくり、匠の世界の原点を呼び起こす時がきたのかもしれません。単純にコストや合理性の数字だけでは語れない。日本の農業、日本の食文化は、そういうものだと思います。